「君の名は。」とかいうゼロ年代エロゲーの時系列まとめ-【第2章】α´世界線及び真の『BAD END』の発見

 さて、本章からはいよいよ「君の名は。」時系列ver.4の中身についての解説を行います。

 まず、上記の時系列表をご覧下さればお分かりの通り、本時系列では作中に以下の三つの世界線が存在すると解釈しています。

 α世界線 … 瀧が糸守に辿り着けない

 α´世界線…      瀧が糸守に辿り着くが、三葉の死の回避(改変)に失敗する

 β世界線 … 瀧が糸守に辿り着き、かつ三葉の死の回避に成功する

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※PDF版↓

http://twitdoc.com/view.asp?id=320611&sid=6VDV&ext=PDF&lcl=kansyoumazover4.pdf&usr=miya38oscar

 ここで、世界線が三本あるならば、なぜα・β・γ世界線としなかったのかと疑問に思う方もいるでしょう。その理由としては、本作品のメインテーマとはあくまで「三葉の命を救えるか否か」であり、それにより世界線も「三葉が救えない世界線=α」「三葉を救える世界線=β」の二本を軸に据えて捉えるべきだ、という考えがあったためです。

 私のTwittertogetterまとめを追って下さった方ならお分かりのように、過去の時系列ver.3までは、世界線はαとβの二つしか存在しませんでした。また、他の「君の名は。」考察オタクの皆さんが制作された時系列をググってみても、三本以上の世界線を採用している時系列というのは(今のところ)無いように思われます。そして実際に、私の時系列におけるα´世界線においても、仮にそれを無くしても(α世界線に組み込んだとしても)時系列が成り立たなくなるものではありません。

 つまり、本来ならばαとβという二本の世界線で成立する筈だったところに、前章で解説した「瀧が壊滅した糸守を目の当たりにしたタイミングで三葉の日記が消える」という現象の説明を付けるために、「瀧が糸守へ辿り着けるか否か」で世界線を分岐させる必要が発生しました。そして、瀧が糸守へ辿り着けたとしても、その後の行動で三葉の命を救えなかったのであれば、それはあくまで「三葉が救えない世界線=α」の派生であり、「β世界線」でなく「α´世界線=瀧が糸守に辿り着くが、三葉の死の回避に失敗する」とすべきという結論に至りました。これが私の時系列において「α・α´・β」という三本立てを採用した理由になります。

 

 さて、賢明な読者の皆様なら既にお気づきのことと思いますが、この「三本立て」解釈は瀧と三葉にとって非常なまでに残酷なものとなっています。これまで、私を含む多くの「君の名は。」視聴者が想像していた本作品の「BAD END」とは、「(タイムリープ後の2013年で)三葉の命を救うことに失敗する」というエンディングではなかったでしょうか。しかし、時系列を見て頂ければお分かりのように、瀧にとっては「三葉の命を救えるか否か」という選択肢に至るまでもなく、「糸守に辿り着けず、自分がどこの誰と入れ替わったのかも分からないまま、次第に全てを忘れてしまう」。三葉にとっては、「2013年の彗星災害で死亡したまま、忘れ去られる」という真の「BAD END」が控えていることが分かります(α世界線のままストーリーが終結した場合がこれにあたります)。仮に、瀧が司・奥寺先輩と共に飛騨へ向かっていなければ、ラーメン屋で糸守のスケッチを取り出していなければ、この真の「BAD END」へ向かって一直線だったでしょう。

 新海誠の何と鬼畜なことか。なにが「私はここにいるよ」だ。現実からも記憶からも、三葉はどこにもいなくなってしまうじゃないか。

 

 以上を踏まえると、瀧が高山ラーメンを食べながら何気なくα→α´への分岐を成功させていたことさえも、実は非常に危うい綱渡りをギリギリのところで成功させていたことが分かります。この「瀧が糸守に辿り着けない世界線」という概念を発見したことは、瀧や三葉にとっては残酷なものですが、我々「君の名は。」考察オタクにとっては、作品の深みを増してくれる面白い発見になったのではないかと考えています。

 

 さて、ここまでが「α´世界線及び真の『BAD END』の発見」についての解説となります。相変わらず時系列に沿ったストーリーの解説は出来ませんでしたが、それは新海誠の鬼畜によるものです。これならいっそのことブラックホールに飛び込んで時空を超越した五次元瀧君が過去の三葉にメッセージを与えて糸守の住民を疎開させるための宇宙ステーションを作らせて老婆になった三葉と再会する単一世界線のストーリーにでもしてくれた方がどんなに簡単な時系列になったかとも思ってしまいますが、それはいずれ作られるであろうクリストファー・ノーラン版「君の名は。」に委ねるとして、次章(たぶん今週中)からはちゃんとストーリーの解説を行いますので宜しくお願いいたします。

togetter.com

「君の名は。」とかいうゼロ年代エロゲーの時系列まとめ-【第1章】 複数世界線の採用

 さて、長すぎるまえがきを読んで下さった皆様、ありがとうございました。

 ここからは本題として、「君の名は。」時系列についての解説および補足を行います。まず本章では、時系列解説の前提として、togetterにおいても異論が散見された、私が本作品の時系列において「複数世界線」という概念を採用した理由について解説致します。

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※PDF版↓

http://twitdoc.com/view.asp?id=320611&sid=6VDV&ext=PDF&lcl=kansyoumazover4.pdf&usr=miya38oscar

 

 いわゆるタイムリープ物における時系列の構成としては、「ある時点をセーブポイントとして(主人公が「未来」の記憶を保持したまま)そこへ時間が遡る形」(単一世界線)と、「時空が複数の世界線に分かれ、異なる世界線に分岐することで時間が遡る(遡ったように見える)形」(複数世界線)の二種類が存在します。私はSFにはあまり詳しくないため、SF界隈で各々がどのような呼称で表現されているかは分かりませんが、過去の名作で喩えるならば、前者が「時かけ型」、後者が「シュタゲ型」と捉えて頂ければ理解が早いかと思われます。

 「君の名は。」時系列の作成に当たっては、上記の時系列ver.4からも分かるように、私は後者の複数世界線を採用しています。ただ、正直に言うと、「君の名は。」最新版の時系列ver.4の作成を終えて、(おそらく)これ以上のものは作れないだろうという境地に達した今となって、実は単一世界線で時系列を作成することもできたのではないかとも考え始めています。その、単一世界線での時系列作成の可能性について解説するには、私が作成した複数世界線における解釈を踏まえる必要があるため、最終章で取り上げることとします。本章ではひとまず、上記時系列ver.4を作るまでの私が複数世界線を採用した理由について解説します。

 当初、本作品の時系列を単一世界線として捉えた場合、私はまず以下の三点において矛盾が発生すると考えました。

 1.(瀧だけでなく)三葉が「未来」の記憶(自身が彗星災害で死亡した際の記憶)を保持したまま、2013年10月4日片割れ時に遡っている。

 2.2013年10月4日片割れ時で自身の体に戻り、三葉と別れ失神した後の瀧が目を覚ますのが2016年10月x日の夜である。単一世界線で解釈した場合、この間3年間の瀧の動向が空白期間となり、整合性の取れる説明ができない。

 3.瀧が2013年に遡り三葉の命を助けてしまった場合、入替りは三葉の命を助けるために発生するものであるから、「二週目の(タイムリープ後の)」瀧が2016年において三葉と入替ることがなくなり、二週目の瀧が2016年10月x日の夜に糸守の山頂にいることは起こり得ない。

 

 しかし、これらの私がかつて考えていた「矛盾点」については、複数世界線を作成するにあたり私が確認・考察した事実と解釈によって、現在では矛盾を解消することができると考えています。

 まず、1については本作品の主人公を瀧と三葉両名と捉え、時間の巻き戻りを媒介する口噛酒の製作者が三葉であること、また時間の遡り自体が、三葉に宿る宮水の力に因るものと考えれば、瀧と同様に三葉が記憶を保持したまま過去に戻ることは矛盾しないという説明ができます。

 また、2に関しては、詳しくはβ世界線への分岐を解説する章で取り上げますが、「実は瀧の肉体は一度も2013年に戻っていない」という事実を確認することで、そのような空白期間は発生しえないと結論付けることができます。

 そして、3については、

 1)二週目の瀧にも入替りは発生しうる

 瀧が時間を遡った先は2013年10月4日であり、この前日の2013年10月3日の朝に三葉が目覚めるまでの間に、三葉の3年後の瀧への入替りは完了している(作中の描写から、2013年10月2日の夜~3日の朝にかけての睡眠中に起きていた入替りが、三葉にとっては最後の自然発生的な入れ替わりである奥寺先輩とのデートの約束だと考えられる)。すなわち、瀧が2013年10月4日に時間を遡ったとしても、三葉が入替りを行った過去は改変しておらず、三葉の入替りが発生しているということは自動的に2016年の瀧に入替りが発生するということになる。

 2)入れ替わりが発生せずとも、瀧を糸守へ向かわせることはできる
「瀧が三葉との入れ替わりを経験していなくとも、未来のある時点での行動が避けられない運命として定まっている場合に、タイムパラドクスを避けるために現在の行動が『未来のある時点』へと誘導される」

 という解釈を行うことで、瀧が2016年10月x日の夜に糸守の山頂にいることが矛盾しなくなります。私が現時点で、「単一世界線での時系列作成も可能である」と考える理由は、以上のようなものになります。ただ、それ(単一世界線での「君の名は。」時系列)については、あくまで今後の時系列作成への課題とし、本論ではあくまで、上記「君の名は。」時系列ver.4に基づいた解説を行うものとします。

 

 そして、ここからがようやく本題となるのですが、ここまで分かっていても尚、私が複数世界線での「君の名は。」時系列作成にこだわりたい理由としては、以下の二点が挙げられます。

 1.瀧が糸守高校の校庭でスマホの日記を開いた瞬間に、スマホ内の三葉の日記が消える理由が、単一世界線での解釈では説明できない。

 三葉が2016年に存在しえないから日記が消えると考えた場合、三葉の日記は書いたそばから(少なくとも翌日に瀧がそれを見ることはできない期限で)消えていかなければ説明がつきません。しかし、瀧が糸守の壊滅を目の当たりにしたあの瞬間まで日記が残っており、そこから一気に日記の消去が起こるということは、あの瞬間に何らかの過去の改変、あるいは世界線の分岐が発生したとしか考えられません。複数世界線で作成した「君の名は。」時系列ver.4では世界線の分岐にその答えを求めていますが、単一世界線で考えた場合にはこの問題に有力な答えを見出すことができていません。

2.複数世界線という解釈が、本作品における「組紐」及び「ムスビ」という概念に合致している
 作中での宮水一葉の台詞に「よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それがムスビ、それが時間」というものがあります。宮水で神の技を顕す「組紐」という複数の糸を絡め作る工芸品、そして時間のメタファーである糸が「寄り集まり」「捻じれて絡まる」「戻って途切れまたつながる」という表現から考えるに、私は本作品の時系列には複数世界線が似つかわしいと考えています。

 

 さて、以上が本作品の時系列において私が複数世界線という概念を採用した理由となります。結局、時系列自体の解説には全く触れず終わってしまいましたが、ここまで前置きしないと本論に入れないのが「3年の時を隔てた入替りをしつつ過去でヒロインの命を救いつつヒロイン(とついでに街の住民)の生死以外の要素は何も改変しない」という新海誠の変態ラブストーリーです。

 これならいっそのこと瀧君がガンバスターに乗って彗星を迎撃し糸守の(街の)破壊含め色々な未来を改変してくれた方がよほど分かりやすい時系列になったと思いますが、それはいずれ製作されるであろう実写版「君の名は。」に委ねるとして、次章(たぶん今週中)からはちゃんと時系列自体の解説を行いますので宜しくお願いいたします。

togetter.com

【まえがき】「君の名は。」とかいうゼロ年代エロゲーの時系列まとめ-全ての感傷マゾオタクに捧ぐ

 

 世の中の人間を「オタク」と「一般人」に区分した時、新海誠は元来、オタクたちの拠り所であったことは間違いありません。エヴァ旧劇の衝撃と破壊から20年、心に闇を抱えたオタクたちー後に感傷マゾという言葉で形容されるーが自らのアイデンティティを求め集ったその先が、「ほしのこえ」から「言の葉の庭」に至るまでの新海作品群であったように思われます。

 そのような沿革を経た上で、平成28年8月26日、同年11月20日現在で興収189億円*1を達成した新海誠最新作「君の名は。」が公開されました。この作品による、我々感傷マゾオタクが迫られた苦悩、すなわち「感傷に留まり生きていくか、優勝の海に踏み出すか」というテーマも筆舌に尽くしがたいものがあります。

 ただ、そのテーマについては豊富な先行研究が既に存在します*2ので、私がここで語ることはありません。また、それについてどれほど論を戦わせたところで、我々が行き着く先は暗く淀んだ感傷の海であることに変わりはありません。感傷マゾはみな病気、ただその闇の中で、闇を受け入れ自分をさらに痛めつけることを認めるか、それが虚構であると知りながら闇の中でうたかたの優勝の夢を見ていたいと思うのか、その違いだけです。

 さて、いよいよ本題に入りますが、「君の名は。」の歴史的大ヒットにより私が危惧している問題、それが「新海誠の一般化による感傷マゾオタクのアイデンティティの喪失」です。率直に言って、「君の名は。」の興収189億円という成績は、オタクによるものではありません。勿論、一人で二ケタ回劇場に足を運んだオタクも多いことでしょうが、リピーターの続出という点において「君の名は。」と同様の現象が起きていたガルパン劇場版の興収が平成28年8月22日時点で約23億円*3に留まることを踏まえれば、「君の名は。」の189億円という興収がいかに「一般人」によって成されたものであるかが分かります。

 このような、「新海誠作品の『オタクによる興収』<『一般人による興収』となってしまった状態」を本論では「新海誠の一般化」と定義づけています。

 そして、その「新海誠の一般化」が我々感傷マゾオタクにとって何が問題なのかというと、一言でいえば先述の「感傷マゾオタクのアイデンティティの喪失」、つまり我々の拠り所=居場所が無くなり、我々感傷マゾオタクがオタクとしての地位を維持できなくなることを意味しています。「君の名は。」公開以前であれば、「一般人」から好きな映画について尋ねられ、新海誠と答えれば、それが通じないか気持ち悪がられるかのどちらかでした。そして一番重要なことは、我々はそれでよかったのです。「一般人」が感知しない、もしくは忌み嫌うところに我々のソルトレイクシティを求め、オタクだけで、オタク同士で気持ち悪い交流を深め合うのが我々の理想の居場所でした。それが今や、「一般人」の中でもオタクと最も対極にあったはずの、いわゆる「ウェーイ系」や「パリピー」までもが新海誠を見て、新海誠を語るようになってしまいました。

 上記は「君の名は。」の大ヒットを受けてのわくさん (@wak)のツイートに対する私のエアリプですが、まさにこの、「ライトオタクから気持ち悪がられる存在」たらんと思い私が作り上げたのが、拙著「君の名は。」時系列*4となります。本当はこの記事で時系列の解説と補足を行おうと思い、時系列作成に至るまでの経緯をまえがきとして添えようかと考えていたのですが、そのまえがきがこのような長文駄文になってしまいました。次の記事(たぶん今週中)からは本気出して解説を行いますのでご容赦ください。