【まえがき】「君の名は。」とかいうゼロ年代エロゲーの時系列まとめ-全ての感傷マゾオタクに捧ぐ

 

 世の中の人間を「オタク」と「一般人」に区分した時、新海誠は元来、オタクたちの拠り所であったことは間違いありません。エヴァ旧劇の衝撃と破壊から20年、心に闇を抱えたオタクたちー後に感傷マゾという言葉で形容されるーが自らのアイデンティティを求め集ったその先が、「ほしのこえ」から「言の葉の庭」に至るまでの新海作品群であったように思われます。

 そのような沿革を経た上で、平成28年8月26日、同年11月20日現在で興収189億円*1を達成した新海誠最新作「君の名は。」が公開されました。この作品による、我々感傷マゾオタクが迫られた苦悩、すなわち「感傷に留まり生きていくか、優勝の海に踏み出すか」というテーマも筆舌に尽くしがたいものがあります。

 ただ、そのテーマについては豊富な先行研究が既に存在します*2ので、私がここで語ることはありません。また、それについてどれほど論を戦わせたところで、我々が行き着く先は暗く淀んだ感傷の海であることに変わりはありません。感傷マゾはみな病気、ただその闇の中で、闇を受け入れ自分をさらに痛めつけることを認めるか、それが虚構であると知りながら闇の中でうたかたの優勝の夢を見ていたいと思うのか、その違いだけです。

 さて、いよいよ本題に入りますが、「君の名は。」の歴史的大ヒットにより私が危惧している問題、それが「新海誠の一般化による感傷マゾオタクのアイデンティティの喪失」です。率直に言って、「君の名は。」の興収189億円という成績は、オタクによるものではありません。勿論、一人で二ケタ回劇場に足を運んだオタクも多いことでしょうが、リピーターの続出という点において「君の名は。」と同様の現象が起きていたガルパン劇場版の興収が平成28年8月22日時点で約23億円*3に留まることを踏まえれば、「君の名は。」の189億円という興収がいかに「一般人」によって成されたものであるかが分かります。

 このような、「新海誠作品の『オタクによる興収』<『一般人による興収』となってしまった状態」を本論では「新海誠の一般化」と定義づけています。

 そして、その「新海誠の一般化」が我々感傷マゾオタクにとって何が問題なのかというと、一言でいえば先述の「感傷マゾオタクのアイデンティティの喪失」、つまり我々の拠り所=居場所が無くなり、我々感傷マゾオタクがオタクとしての地位を維持できなくなることを意味しています。「君の名は。」公開以前であれば、「一般人」から好きな映画について尋ねられ、新海誠と答えれば、それが通じないか気持ち悪がられるかのどちらかでした。そして一番重要なことは、我々はそれでよかったのです。「一般人」が感知しない、もしくは忌み嫌うところに我々のソルトレイクシティを求め、オタクだけで、オタク同士で気持ち悪い交流を深め合うのが我々の理想の居場所でした。それが今や、「一般人」の中でもオタクと最も対極にあったはずの、いわゆる「ウェーイ系」や「パリピー」までもが新海誠を見て、新海誠を語るようになってしまいました。

 上記は「君の名は。」の大ヒットを受けてのわくさん (@wak)のツイートに対する私のエアリプですが、まさにこの、「ライトオタクから気持ち悪がられる存在」たらんと思い私が作り上げたのが、拙著「君の名は。」時系列*4となります。本当はこの記事で時系列の解説と補足を行おうと思い、時系列作成に至るまでの経緯をまえがきとして添えようかと考えていたのですが、そのまえがきがこのような長文駄文になってしまいました。次の記事(たぶん今週中)からは本気出して解説を行いますのでご容赦ください。